【法話】救いのスペシャリストにおまかせするとは?

みなさん、こんにちは!おてライターのHIDEさんです。
お寺を楽しくする情報を発信しています。

さて、今回は少し法話をしてみたいと思います。

目次

子どもとのお風呂での出来事

ウチには4人の子どもがいるのですが、夜になると、子どもたちと一緒にお風呂に入って体を洗ってあげるのが日課になっています。

先日、次女とお風呂に入り、私が後ろから頭をごしごし洗っていると、洗ってもらっているはずの娘の手がにゅっと出てきました。

どうやら、自分でも洗いたいようです。6歳という歳はそんなことを思い始める時期だなあと思いました。

ただ、近ごろ気温も上がり、暑くなりはじめました。それは、同時によく遊ぶ子どもたちにとって、汗や皮脂などの頭の汚れが多くなる季節でもあります。

普段は時折一人で洗わせることもあるのですが、ほうっておくと、汚れが落ちてなかったり、匂いが残っていたりということがあるので、「今日はお父さんが洗うから」と娘に告げて、洗い続けました。

ところが、すぐに納得するはずはなく、やっぱり洗いたいようで、時々手が出てきて、私の手とぶつかります。

正直、「邪魔やなあ」と思いながらなんとか洗い終えました。

「まかせる」ってむずかしい

子どもにとって、少しでもできることを「まかせる」のは難しいようです。

小さな頃は成長が早いですから、できることも急速に増えていきます。すると、「これならできそう、自分でしたい!」という思いが募っていくわけです。今回はシャンプーがそれに当てはまりました。

 

でも、「まかせる」のであれば、まかせた者は余計なことをしないのが鉄則です。できると思って手を出すとかえって邪魔になるのです。

阿弥陀様の邪魔をしていないか

阿弥陀様と私の関係もそうですね。

阿弥陀様は私を苦しみから救いたいと願いを起こされ、行を修め、全ての者を救うことのできる仏となられました。

いわば、救いのスペシャリストです。

 

けれども、私はあれこれ考えてしまいます。

「何か立派なことをしないと、救われないんやろうか?」

「悪いことをしたら、救ってもらえないんとちゃうやろか?」

…と。

 

しかしこれらの「自分の行いが何かしら往生について影響すると考えること」は、シャンプーの時と同じで、余計なことです。

素人がいくら考えてもスペシャリストの邪魔になるだけなのです。

 

自分の行いが問われる救いであれば、きっちりと品行方正に生きていくことが救いの条件になることでしょう。

けれども、私たちはそんなことができる存在でしょうか?

表の顔を持ち、人前ではええかっこをし、自分だけは善人だと思い込んでいる。

裏では、言動と行動が伴わず、あの人とは違うと他人を蔑みながら生きていたりしないでしょうか?

 

もし、私の行いが問われるならば、誰も救われません。

 

幸いなことに阿弥陀様のお救いは私の行いは問われません。

なぜなら、私を救うためには条件をつけていては救えないからです。

行いを問わずに、必ず救う。

これが阿弥陀様を「救いのスペシャリスト」とする所以なのです。

 

その阿弥陀様の心を受け取り、私たちは「おまかせのスペシャリスト」になりたいものですね。

 

合掌

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA

目次