あけましておめでとうございます。おてライターのHIDEさんです!本年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、年末の紅白歌合戦はご覧になられたでしょうか?
ぼくは今、録画で早送りしながら見るというなんとも風情のない方法で後追いをしております。
と、いいますのも、お寺の年末というのは「除夜の鐘つき」があるもんですから、ゆっくりと紅白を見ることができないんですね。
で、録画して、年始に観たいところだけ押さえていくということをしています。そんなお寺さんも多いのではないでしょうか?
今回は、星野源で法話!
さて、その紅白の中で、ぼくの大好きなアーティスト、「星野源」くんが出ておりました。白い衣装に身を包み、相変わらずの優しい笑顔でテレビの前の女性たちと一部のおっさんをキャーキャー言わせていたことでしょう。
以前、こちらのブログでも紹介をさせていたこともありました。
そんな彼のエッセイ『そして生活はつづく』の中に、自分とお母さんの話、「子育てはつづく」という章があります。
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今回はそのお話しをピックアップして、仏さまのお慈悲をいただく「ご法話」をさせていただきたいと思います。
ユニークなお母さん「ようこちゃん」
みなさんは、実母のことをなんと呼んでいるでしょうか?
ぼくは「お母さん」と呼びますが、「ママ」と呼んでいる人もいることでしょう。
源くんはお母さんのことを「ようこちゃん」と呼びます。
なぜか?それは、小学校の頃に、お母さん自身がそう呼ばせたのだそうで、最終的には近所の子どもたちもみんな、「ようこちゃん」と呼ぶようになったのだそうです。
とても、ユニークなというか少し変わったお母さんだったことが伺えます。
それ以外にも源くんに対して、色んな面白いことをお母さんが仕掛けていきます。
例えば、五歳の頃には、お風呂場で「助けてー!排水溝に吸い込まれるー!!」と言って源くんを驚かせます。
普通に考えれば、あのちっちゃな穴に大の大人が吸い込まれるはずはないので、ようこちゃんの演技なのですが、当時5歳の源くんですから、「ようこちゃんが危ない!」と、すっかり信じ込んじゃったようで、号泣しながらようこちゃんをひっぱって助けたというエピソードがあります。
源くん自身はそれらのことを大きくなってから、
なんというか、うちの親は自分の子を使って遊んでいた。
と、当時のことを振り返ります。
ここだけ切り取ると「ひどいお母さんだなぁ」という感想になってしまいますが、源くんは徐々に「ようこちゃんの真意」に気づいていきます。
ある時、仕事でヘマをして、落ち込んでいた源くん。原点を振り返ってみようと思い立って、小学生時代に育った町をふらついていました。
実は小学校時代、いじめにあっていた源くん。始めは、あの頃の悲しい記憶がよみがえってくるかと思ったそうです。
ところが…
てっきり悲しい思い出ばかりだと思っていたのに、実際に思い起こされるエピソードは母親にだまされ遊ばれたという、バカで、くだらなくて、楽しいものばかりだった。
…という、「ようこちゃんとの楽しい思い出」がたくさん思い出されてきました。
それがきっかけとなり、源くんは、ようこちゃんに当時のことを尋ねてみることになります。
源くんに面白いことを仕掛けたた理由は?
源くんがようこちゃんに当時のことを尋ねると…
「だって、学校に行って帰ってくるたびに源の顔が暗くなっていくんだもん。それを無理に頑張れって言うのも嫌だし、だからせめて家の中だけは楽しくいてもらおうと思って、いろいろしたの」
という返答が返ってきます。
それを聞いた源くんは
今気づいた。私は遊ばれていたのではなくて、遊んでもらっていたのだ。
と本の中につづっていきます。
ようこちゃんが源くんにいろいろと仕掛けていたのは、遊んでいたのではなくて、源くんに楽しくいてもらおうと思っての行動だったのです。
相手に合わせて救う
それでは、このお話から、仏さまのお慈悲を味わってみたいと思います。
親鸞聖人の書かれた「きみょーむりょー」で始まる有名な『正信偈』の中に
遊煩悩林現神通 入生死園示応化(ゆうぼんのうりんげんじんづう にゅうしょうじおんじおうげ)
書き下し:煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す
現代語訳:お浄土に生まれさせていただき、仏のいのちを賜ったならば、さらに迷いの世界に還らせていただき、あらゆる方々を救うことができるのであります。
という部分があります。
ここは、阿弥陀様の救いのはたらきを受けて、ぼくたちもこの世のいのちが尽きたならば、同じはたらきをする仏にならせていただくけれど、その活動はどんなものなのかということが示された部分になります。
ここで、少し語句に注目してみましょう。
「遊煩悩林現神通」とあるのは、まるで遊ぶように自由自在に救うという意味です。
また、「示応化」とは救うべき相手に合わせて姿を変えて救っていく、救いを示していくということです。
つまり、この部分を簡単にまとめると「(仏のはたらきは)苦しんでいる相手に合わせて自在に救っていきますよ。」ということになります。
ぼくは、この部分が「星野源くんとようこちゃんのお話」に重なると思ったのです。
母と言うのは、子どもをよく見ています。
ぼくのお寺でも4人の子どもたちと一緒にわいわいと暮らしていますが、乳飲み子なんかは、朝から晩まで一緒に母親と一緒にいます。
ですから、母は子どものことがよく分かるんですね。
ようこちゃんもそうだったのです。だんだんと暗い顔になっていく我が子を「がんばれ」というだけでは余計に源くんを苦しませることになると分かっているようこちゃんは、楽しませる方向に切り替え、ユーモアで源くんを励まし続けたのです。
その母の思いに大人になってから気づいた源くんは、「遊ばれていたのではなくて、遊んでもらっていたのだ。」と感じていきます。
阿弥陀様の救いのはたらきも同じで、普段、ぼくたちは阿弥陀様の思いに気づいていません。
どうして気づけないのかというと、ぼくたちがこの娑婆世界を楽しいと思っているからで、この世に執着しているからです。
そのことが実はぼくたちを苦しめている原因そのものなのですが、ぼくたちは苦しみの原因を無視して楽しいとすら思っているのです。
そんな姿を阿弥陀様が見たらどう思うでしょうか?
間違いなく、ほうっておけないと思われることでしょう。
ですから、阿弥陀様は手を変え品を変え、「どうか、念仏の教えを聞いてくれよ、真実の世界にあってくれよ」と動き続けてくださっているのです。
その行動の先には「念仏の救いを聞いて、安心してほしい。」という思いがあります。それは子を喜ばせたいという、大いなる親の願いであり、自在に姿を変え、ぼくたちを救おうとしています。
それは、ぼくたちが気づくのではなく、ずっと前からはたらいていて、気づかされていく世界。
親の先回りしたはたらきだけが、ぼくたちを救っていくのではないでしょうか?
そんなことを「源くんとようこちゃん」の話から感じたことであります。
そして生活はつづく
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僧侶&ローカルWebメディア「ぶぜんらいふ。」編集長(http://buzen-life.com/) お寺と地域の活性を目指して日々奮闘中です。夢は豊前を仏教王国にすること。そのために、お寺を中心としたコミュニティ「お寺まちづくり」を推進中です!